アルパカログ

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サピエンス全史から人生の意義と幸せについて考える

人類の進化やその原動力となった3つの革命(認知革命、農業革命、科学革命)について書かれたサピエンス全史を読んで、個人的に一番印象深かったテーマである「人生の意義とは、幸せとは」ということを中心にまとめつつ、自分の考えを添えてみたい。

人々は、自らの決定がもたらす結果の全貌を捉え切れないのだ。

農業革命によって、人類は狩猟採集から農耕へと移行したが、生活状況は狩猟採集民だった頃よりも悪化したという。これは我々の直感に反するが、本書によると農耕への移行、すなわち定住により、感染症の蔓延、小麦や米など単一の食料源への依存、干ばつによる飢饉に晒されることになったからだそうだ。

これらは少なくとも狩猟採集民であった頃は問題ではなかった。干ばつが起きても違う土地に移動すれば良かったし、木の実が不作ならキノコを食べたり魚を獲ったりすれば良かった。

狩猟採集から農耕へと移行したとき、人々は、安定的に食料を得て生活を豊かにしたいと願ったはずだ。草を取り、石を取り除き、畑を耕し、何世代も改良を重ねるうちに労働時間は増加し、狩猟採集の頃よりも生活は劣悪になっていた...。これほどまでに皮肉な話があるだろうか?

しかし身の回りを振り返ってみると、私たちはこれと似た話が珍しくないことに気付く。良かれと思って始めた小さな改善が、いつしか初めよりもコストがかかるようになってしまうケースだ。私たちは、自らの決定がもたらす結果の全貌を知ることができないのである。

進化は平等ではなく差異に基づいている。誰もがいくぶん異なる遺伝子コードを持っており、誕生の瞬間から異なる環境の影響にさらされている。その結果、異なる生存の可能性を伴う、異なる特性が発達する。

世の中には様々な人がいる。自分とはあまりにかけ離れていて、理解できない人もいるだろう。そんなとき、ヒトは自らの種の生存や進化のために、個々に異なる特性を持つに至ったと考えれば、自分と他人の違いは些細に思えるのではないだろうか。

生物学の立場では、人は生まれながらにして平等ではない。そのことを念頭に置いておけば、共感はできずとも、ある程度の理解はできるはずだ。

私たちが特定の秩序を信じるのは、それが客観的に正しいからではなく、それを信じれば効果的に協力して、より良い社会を作り出せるからだ。

例えば、私たちが通貨を「価値あるもの」として信じるのはなぜだろうか?通貨は、それだけ見ればただの紙切れやコインでしかない。

私たちは、「他人が通貨の価値を信じていること」を信じているのだ。そして、通貨の価値を保証している国家を信じているのだ。

もし通貨がなければ、物々交換することになるだろう。私たちは通貨という「特定の秩序」を信じることによって、それが正しいかどうかはさておき、効果的に協力できる。

そして「特定の秩序」とは通貨だけでなく、人権、法律、国家、法人、理念など、私たちの身の回りのありとあらゆるところに存在している。これらの概念は客観的なものではない。個人の主観でもない。多人数が主観的に信じているからこそ存在している。そういう意味で「共同主観的」という言葉が本書では使われている。

言い換えると、人が効果的に協力するためには「特定の秩序」を作り、それを共同主観的に信じる必要があるということだ。会社や組織、チームには、理念や目標、行動規範といったものが存在する。ミッション・バリューと呼んでいるかもしれない。これらは、人が効果的に協力するために作られた、共同主観的な「特定の秩序」に他ならない。

思考や概念や価値観の不協和音が起こると、私たちは考え、再評価し、批判することを余儀なくされる。調和ばかりでは、はっとさせられることがない。

中世では騎士道とキリスト教、現代では自由と平等といったように、二つの価値観による矛盾が人類文化を発展させてきたと本書は言う。

身の回りを振り返ると、こういった二つの価値観による矛盾はいたるところに存在する。例えば、組織マネジメントの文脈ではよく「成果か、成長か」ということを問われる。組織による成果と、組織に属するメンバーの成長の、どちらを優先するかということだ。これらは完全にトレードオフの関係ではない。しかし時々衝突し、マネージャーは矛盾に苦しむことになる。

見方を変えると、マネジメントの例も含め、大なり小なり文化とは「いかにして矛盾と折り合いをつけるか」ということに尽きると思う。矛盾が見つかり、批判に晒され、再評価することによって文化が発展し、進歩していく。文化の矛盾を前向きに捉えることで、私たちの日々の苦しみも少しは楽になるのではないだろうか。

おむつを替えたり、食器を洗ったり、癇癪を宥めたりすることが占めており、そのようなことを好んでやる人などいない。だが大多数の親は、子供こそ自分の幸福の一番の源泉であると断言する。(中略) 幸福とは不快な時間を快い時間が上回ることではないのを立証しているとも考えられる。幸せかどうかはむしろ、ある人の人生全体が有意義で価値あるものと見なせるかどうかにかかっているというのだ。

幸せかどうかは、自分で自分の人生が「有意義で価値のあるもの」と思えるかどうかにかかっているという。

たぶん、私たちはこのことを知っている。幸せと思うかどうかだけでなく、幸せの定義すらも、自分自身だからだ。しかし、私たちはいろいろな価値観、例えば、裕福であることが幸せであるとか、結婚相手を見つけて結婚することが幸せであるとか、そういった刷り込みによってそのことを見失ってしまっている。

自分で自分の人生が「有意義で価値のあるもの」と思えたとしても、客観的に、あるいは科学的にもそうであってほしいと思ってしまうのが人情だろう。人生の意義とはなんだろうか?本書の答えは残酷だ。

純粋に科学的な視点から言えば、人生にはまったく何の意味もない。人類は、目的も持たずにやみくもに展開する進化の過程の所産だ。(中略) 幸福は人生の意義についての個人的な妄想を、その時々の支配的な集団的妄想に一致させることなのかもしれない。私個人のナラティブが周囲の人々のナラティブに沿うものであるかぎり、私は自分の人生には意義があると確信し、その確信に幸せを見出すことができるというわけだ。

著者は、それぞれが考える人生の意義は全て妄想だと言う。確かに、人類の進化という長大な時間の流れから見れば、私たちが人生の意義だと思っているものは、刹那的とも言えるひとつひとつの人生の気休めに過ぎないのかもしれない。

それでも私たちは、例えば、私という個人の価値を決めるのは他人ではなく私自身であるとか、これまで経験したことのないことを積極的に経験するのが良いとかいった個人主義ロマン主義のように、その時代の支配的な考え(集団的妄想)に自分の考えを一致させることで、少なくとも自分では自分の人生に意義があると思える。それさえも妄想なのだが、幸せとはそういうものらしい。

私たちは何を信じるも、信じないも自由だ。それさえも進化の過程におけるひとつの可能性に過ぎないことを、サピエンス全史は教えてくれる。私がこれまで読んだ本の中で、サピエンス全史は明らかに異彩を放っていて、物事の見方をガラッと変えてしまった。ぜひ手に取ってみてほしい。